恋と窓シリーズ------恋と窓の位置関係07

恋と窓シリーズ

恋と窓の位置関係07

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『叶ぇえええええええっ!!!!』

止んだと思っていた雨は実際そうではなくて、細かにいくつも降り注いでいた。
自分の真下にはフェンスと壁の間に挟まってうずくまる叶の姿がある。叶の部屋から垂れているハシゴは引きちぎられて途絶えていた。
叶、叶と、まるでそれしか言葉を知らない子供のように、何度もそう叫んだ。雨が降りしきる中を、自分が濡れるのをかまわず、窓から身を乗り出して、何度も何度も。でも、叶はぜんぜん目を覚ましてくれなくて、止まない雨に濡れていくシャツから叶の肌が透けて見えるまでになってしまう。同時に、水たまりの跳ね返りや雨どいの汚れた水で、白い叶が見る間に茶色くくすんでいった。
「叶、叶ぇ!!」
なんとか叶に起きてほしくて力の限り声を張り上げる。目はあふれる水で落っこちそうなのに、喉は干からびてカラカラだ。だんだん強まる雨足に頬を伝う水が、目から流れるものか、それとも空から落ちてきたものか、区別がつかなくなる。叶の姿がかすむのが嫌でごしごし目をこするけれども、ほとんど効果がなかった。
「晴季!!」
急に鋭くそう呼ばれて、羽交い絞めにされた体が後ろに倒れ込む。背中が暖かくなって、なんだろうと振り返ったら母さんが悲壮な顔をして俺を見ていた。
「どうしたの!?」
母さんが俺の肩に手を置いて、ぎゅっと握りしめる。あんまりすごい力で俺は身を強張らせた。
「あ…、あのっ」
母さん、叶を助けてっ!!! こう言わなきゃならないのに、喉が凍ったように声が出ない。それでも俺は震える手でなんとか窓の外を指差した。
「なにか落としたの……? って、まさか――!!」
母さんは俺を突き放して窓に駆け寄った。そしてさっき俺がしていたみたいに下を覗き込んだ。
「―――叶くん!!!」
母さんが金きり声をあげた。今度は母さんが俺の代わりに叶を呼んでくれる。俺も一緒にやりたいけど、なんだか体が動かない。でも、母さんだったら、きっと叶のことを助けてくれるはずだ。
……よかった、叶―――。
そう思ったら全身の力が抜けて、体が斜めに傾いだ。母さんがこっちを振り返る。
母さん――――。
今なんて? 母さんが俺を見た途端、なにか言ったみたいなんだけど……。だめだ。なんだか俺、眠くって―――。母さんなら叶のこと任せても大丈夫だよね? たのむよ、母さん。俺、いま体がいうこときかないんだ。だから、おねがい。ちょっとだけ横にならさせて―――。
目の前がふつりと暗くなる瞬間、叶が微笑む顔がまぶたの裏に見えて、そしてすぐに何も分からなくなった。

『晴季……?』

次に意識が戻ったのは、母さんの運転する車の中だった。俺は背もたれを倒した助手席で眠っていたらしい。俺が起きたのに気づいた母さんが俺に大丈夫かと声を掛けた。
「うん…」
なんとなく外を見ればそこは真っ黒で、どこを走っているのかほとんど分からない。ただ窓に幾筋も雨の跡が残っていて、あぁ雨が降ってるんだなぁと思う。…………あ、雨っ!!!
「か、母さんっ。叶は!?」
「――今、叶くんの運ばれた病院に向かっているところよ」
前を見つめたまま、母さんは静かにそう言った。
「病院に運ばれたんだ……」
「ええ、叶くんのご両親が付き添ってるわ。見た感じ大きな怪我はなかったけれども、念のためにね」
「そっか……」
とりあえず問題なさそうだ分かって、俺はほっと胸をなでおろした。それに、叶の両親とうちの母さんがついてくれてるというだけで心強い。
「――そ、そういえば母さん、叶を助けてくれたんだよね? ………あの、ありがとう」
面と向かってお礼を言うのはちょっと照れくさくて、俺はうつむきながら小さく言った。母さんは楽しげな、でもちょっと困った顔をして俺を見下ろした。
「母さんは何もしてないわ。ただ、叶くんのお家に知らせに行っただけよ」
「それでも、俺はなにもできなかったから……」
「でも、晴季が叶くんのことを大声で呼んでいなかったら、母さん気づかなかったわ。異変に気づいた康代さん(叶のお母さん)もちょうど玄関に出て来たところだったし……」
「そうなんだ……」
そこで母さんは少し沈黙して、震えるようにため息をついた。
「窓から身を乗り出す晴季を見たときは本当にびっくりした」
「それは―――」
俺ははっとして母さんを見上げた。車の黄色いライトが母さんの顔を照らしては消えてゆく。
「もちろん晴季がそんなことするわけないって分かってるけど、晴季の叫び声がおかしかったし、わたしも気が動転していたから……」
「…………うん」
「それに、急に気を失っちゃうんだもの。心臓が止まるかと思った」
「……うん」
「それに、熱ない?」
母さんが俺の額に手のひらを当てた。ひんやり冷たい。
「大丈夫みたいね。ほとんど裸で雨に打たれてたから……」
「ぇあ、あっ、その……」
むむむ、夢中でぜんぜん気がつかなかった!!
「今日に限って政(俺の父さん)が出張だったから、晴季をひとり家に残して出るのは心配で連れてきちゃったけど、風邪引かなくてよかったわ」
「う、うん…」
顔をほてらせてドギマギ言う俺に、母さんは額から手を外して、頭をやさしく撫でてくれた。もう中学生なのにそんなことされるのは恥ずかしいけれど、でもその手は気持ちよくて、俺は振りほどくことができなかった。
「今日はびっくりすることがいっぱいあったわね。こんなにも驚かされたんだもの。もうこれ以上のことはきっとないわ」
叶は大丈夫だって、母さんなりに俺をなぐさめてくれているのが分かって、俺は窓の外を見るふりをしながら、そっと目の縁をぬぐった。
しばらくすると巨大な黒い建物が見えて、母さんが器用にハンドルを切って地下にある駐車場に車を止めた。非常灯に引き寄せられながら、急患専用の入口に入っていくと、そこに叶のお父さんとお母さんがいた。
「新井さん」
俺たちに気づいた康代さんが長椅子から立ち上がって駆け寄ってくる。母さんも小走りに声をかけた。
「叶くんは?」
「今ちょうど検査を受けているところよ」
「そう…」
康代さんに寄り添うように立っていたおじさんが、軽く会釈をして俺たちに椅子をすすめてくれた。四人並んで椅子に座る。
辺りはとても静かで、頭上にある時計の針が動く音と、あとはお医者さんらしき低い声が空気を震わすように響くだけだ。外界から遮断されたここでは雨が降っているのかいないのかも分からない。
康代さんは下を向いてぎゅっとハンカチを握りしめていた。おじさんはそんな康代さんの肩を抱いて、心配ない大丈夫だと励ますように時折声をかけながら、じっと廊下の向こうのドアを見つめている。俺と母さんはただ無言で、スカートの広がった裾の下で手をつなぎながら、叶の検査が終わるのをひたすら待った。


***


俺はゆっくり目を覚ました。どうやら眠ってしまっていたみたいだ。こめかみが冷たくて、指で触ってみると濡れている。夢で泣いてたら、現実にも泣いていた。
思い出さないようにしていたのに、夢に見てしまうなんて―――。叶と過ごした時間なんていくらでもあるのに、もっと楽しかったことを夢に見たかったな……。
俺はベッドの上に身を起こして、天井を見上げた。光を吸収して発光する蛍光シールの効力は失われて、部屋の中はほとんど真っ暗闇だ。何も見えないだけに想像力が研ぎ澄まされるようで、さっきの夢の続きがはっきりと頭にイメージされる。
あれから病院で、あまり時間の経たないうちに叶がベッドで看護士さんに運ばれてきた。お医者さんから検査ではとくに異常は見当たらなかったと説明を受けて、ほっと安心したのも束の間、叶の顔色を見て俺は血の気が引いた。元々色白な叶だけれど、ベッドに横たわって目を閉じた顔は青白くやつれていて、目が落ちくぼんでいた。別人と言われれば、そう信じてしまうくらいの変わりようだった。
「会うのが怖いよ……」
事故から数日経ってるし、もう治っているはずだとは思えても、まだあの明らかに病人顔の叶だったらどうしようと思う。だったら、きっと俺は目も合わせられないだろう。
「陣野……、どうしたらいいかなぁ」
明日ぜったい陣野に叶に会ったかどうか聞かれるよ……。陣野のことだ、会ってないと聞いたら、叶の家に押しかけてでも会わせようとするだろうな。でも、今の俺にとってはそのくらいやってくれた方がいいのかもしれない。いろいろ理由をつけて、叶に会わないようにしてるだけなんだから。
―――そっか、俺……。叶に嫌われるのが怖いんだ。
嫌われるくらいなら、会わない方がいい。そっちのがまだ我慢できる。会えないより、叶に冷たくされる方がよっぽどつらい。
……事故のほとぼりが冷めるまで、待とう。
叶の体がよくなったら今まで通り、幼馴染としてやっていけるかもしれない。俺の気持ちも落ち着いて、この怖さも減っているかもしれない。
そう思うと、すこし気分が浮上する。ぜんぜん先の分からない小さな希望だけれども、今の俺にとっては充分だ。やっとほんの少し息のつけたような思いで、俺は再びベッドに体を伸ばして目を閉じた。

…、…、―――。

何かを叩く音が聞こえて、俺は閉じたばかりのまぶたを上げた。

コツ、コツ、―――。

今度はさっきよりも強めに音が聞こえてくる。そして、窓がレールを滑る音が聞こえて、閉めていたカーテンがさらさらと風に揺れた。部屋の中より外の方が明るくて、カーテンに人影が浮かび上がる。
俺の勘違いでなければ、それは会いたくて会えなかった―――。
ばくばくと心臓を躍らせながら、俺はその人影の動きを暗闇に慣れた目で見守る。影がゆらりと動いて、その手がカーテンの端にかかった。そのまま横に引き開けられる。そのシルエットがはっきりと視界に入った。
――――叶だ!!
逆光になっていて顔は見えないけれど、線の細いその姿は叶に違いない。一方、叶の方は部屋が真っ暗なために俺の姿が見えていないようで、何も言わず床に降り立つと、勝手知ったる他人の部屋とばかりに、暗がりをものともせずドアの方へと歩いてゆく。それを俺は今すぐ逃げ出したいような、でも叶に見つけてほしいような、奇妙な気持ちでただ見つめていた。
叶はドアの前で立ち止まり、手を上げた。その途端、カチリと音がして、部屋の中が一瞬にして明るくなる。
「あっ…」
俺は目がくらんで、眩しさに手をまぶたに押しやった。
どうしようっ、何を言えばいいのかな―――。
明るくなったら必然的に俺がいるのがバレてしまう。軽くパニックになりながら、それでもこのままでいるわけにもいかなくて、怖々そろえた指を広げていった。指の隙間から光が差し込んで、そこに見えたのは、以前と寸分変わらない叶の姿だった。

「叶っ!!」

久しぶりに見る叶にうれしくなって、俺はベッドから飛び降りた。叶に抱きつこうと、満面の笑みで手を広げる。けれども――――。
「…………叶?」
叶は少しも動じなかった。
「晴季」
固い声で言われて、俺は思わずその場に固まる。

会いたかった顔は、感情を映していなかった。
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