アナン・ジェイコフ異聞------貴人05
アナン・ジェイコフ異聞
貴人05
ジルクが険しく眉間に皺を寄せ、前方を見つめているのに気付き、ルーラはその視線の先を辿った。すると、あまり見かけない風貌の男が葡萄酒入りの杯を片手にこちらに向かい佇んでいた。纏う雰囲気から手錬の剣客だという事が窺い知れ、他の席に着く兵士等の衆目をも集める。粗末な灰色の外套を羽織り、それに連なる頭巾を目深に被っている為に、口元でさえ陰になってその表情を窺う事が出来ない。全身単色で異様な風体だが、唯一不釣り合いに厳つい黄金の指輪がやけに目についた。
仄かに張りつめた空気の中、不意にその男がゆらりと身動ぐ。外套の裾が翻り、真っ直ぐと近づいてきた。
緊張した面持ちのジルクに不安になりイリュールに視線を滑らせば、彼も同様に匙を止め後ろの様子を窺っている。だが、すぐそこまで男が近づいた時、イリュールは何故か苦笑を零し再び食事を始めた。ジルクも男が誰だか気づいたのか、急速に興味を失いルーラの水を掠めて口を付ける。
「随分と楽しそうではないか」
灰色の男がイリュールの隣の席に腰を下ろし、杯を飯台に置いた。
イリュールは片眉を上げてそれを見やる。
「昼間から酒ですか」
男の首が心持ち上がり、初めてにやりと歪んだ口が見えた。
「これはそのような代物ではない。極限まで水で薄めた葡萄酒紛いだ。樽一杯飲んだところで少しも酔えまい」
「難破船より引き揚げた安酒ですぞ。悪酔いされよう」
「兵等が好んで飲んでいるそうではないか。厨房の女が申しておったぞ」
恐らくエンマの事を指しているのだろう。
続けて男は愉快そうに笑った。
「面白い女だ。水で薄めるなと注文をつければ、この私に説教を垂れおった。真っ昼間からいい年の男が酒息で如何なものかとな」
「それは同感ですな。午後もたっぷりと政務があります故」
イリュールがちらりと視線を上げる。
「あの女の肩を持つか。確かに、少々とうは立っておるが、悪くない」
男はそう言ってまた笑い、手にした杯を煽った。そして顔を顰める。
「これは酷い……。明日にでも兵に酒を差し入れるとしよう」
男の首が僅かにイリュールの方へ動く。すると、イリュールが渋々といった風に頷いた。
一見気楽な様子のイリュールと男だったが、二人の間には何処か言い知れぬ緊張感が漂う。ジルクにしてみても、まだ男と一言も言葉を交わしていないが、先程よりも少々畏まった態を見せていた。
「あの……、この方は」
ルーラはジルクを見上げ、くいとその外套を引っ張った。
ジルクの口がルーラの耳元まで下りる。
「あの指輪をよくよく観察してみろ」
「指輪……」
先程も目を留めた指輪に再度注目してみる。大きさがあり如何にも上流階級の者が着けていそうな指輪だが、貴石は無く貴族趣味と言うにはやや簡素だ。その代わりか全体に細やかな彫りが施されており、何の紋様だろうとルーラは目を眇めた。
そして、次の瞬間――。
「へ、陛……っ、んむっ!」
その瞳が驚愕に見開く。思わず悲鳴をあげそうになり、咄嗟に横からジルクに口を塞がられた。
――王家の紋章!!
獅子と唐草で模られたそれは城内であればあらゆる処で目にするものだが、一般では使用を禁じられている。一部の高官貴族にて外套や正装にあしらうのを許されてはいるものの、それでも武具や宝飾には通常使用されない。
では、この男は――。
「うっかり外し忘れておったな」
ルーラの様相をしてやったりと見つつ、王は指輪を外し隣へと腕を伸ばした。イリュールより透かさず差し出された掌にそれを落とす。そして、顔を覆う頭巾を指の腹で押し上げた。
「や……、やはり」
肖像もしくは遠目でのみ目にした顔がすぐそこにあった。印象的な瞳がルーラを強く惹きつける。黒く縁取られた金色の虹彩には気勢が溢れ、少々垂れた眦が甘さを添えていた。
「ヴィノク家の子か」
「えっ、……は、はい!」
驚愕で茫然となっていたルーラは急いで居住いを正した。膝の上で握り締めた拳から冷たい汗が滲む。
「法王が熱心でな。原則として入殿には特例を認めぬのだが、何通も要望書を寄越し、果ては直々に頭を下げに来られたとなれば無下には出来ぬ。お前の行いはそのまま法王に跳ね返る故、心して励め」
己を神官にと呼び寄せた法王の柔和な顔を脳裏に描きルーラは頭を下げた。
「はいっ。ありがとうございます!」
――暗に見習いではなくなったと言われた事にルーラが気づけたかどうか……。
師に向かい元気よく答える徒弟のような返事に王は笑みを浮かべ、次いで宰相に目を遣った。
「これの何処に害があるというのか」
イリュールはまるで聞こえていない風にスープを平らげ、空になった皿に匙を落とした。
「成長を見守るつもりです」
平淡に王を見返す。
「まあ、先々の事は判らぬがな」
王は不味そうに酒を一口含むと、戻るぞと席を立った。イリュールも同時に杯盤を抱え立ち上がる。
「御先に失礼する。御二人はどうぞごゆっくり」
ジルクが礼儀とばかりに立ち上がり、ルーラもその後に続いた。
「あ、器は置いて行って下さい。後でわたしが返しておきますので」
宰相殿の手を煩わせまいと引き留める。
「面倒では」
「いいえ、ついでがありますから」
「ならば、御言葉に甘えて……。ああ、それから」
先を行く王を追い掛けようとした足を止め、イリュールはルーラに微笑んだ。
「今度は城下にて食事をしましょう」
「……街で、ですか」
不思議そうにきょとんとなったルーラに、イリュールの笑みに揶揄が混じる。
「昼一飯を馳走するという約束はこれにて反故になりましたかな」
「……あっ」
ルーラはそこでようやく薬の礼を忘れていた事に気づき、申し訳なさそうに首を垂れた。
「昨日はどうもありがとうございました。ろくにお礼もせずすみません……。今度、ぜひ御馳走させて下さい」
「ええ、楽しみにしております故、また日を改めて。では」
イリュールは柔らかな表情を浮かべ、優雅に去って行った。
しばらく、惚けて見送っていたルーラだったが、こつんと頭を小突かれはっと我に返る。
「一応念の為に言っておくが、あれは女ではないぞ」
ルーラは叩かれた頭を抱え、恨めしそうにジルクを睨んだ。
「もちろんですっ。わたしのはただの憧れですからっ」
ジルクは胡散臭げな目を向け、しかし「判っておるならば良い」とあっさり引き下がった。そして、大儀そうに椅子に座り直す。
同時に、場の空気がふっと緩んだのを感じつつ、ルーラも改めて腰を下ろした。
「それにしても、陛下がわざわざ御越しになるとは……」
またもやジルクの拳がルーラの頭にぶつかる。
「い、痛いですっ」
同じ所を二度も叩かれ、ルーラの瞳に涙が浮かんだ。
「阿呆。安易にあの方だと特定出来る言い方をするな。それに、ここに来られた目当ては、お前だろうが」
「わ、わたし……! イリュール様ではなく」
「ああ。奴と俺は城内でも御会い出来る故、変装までしてここに来られた理由にならぬ」
「では、わざわざこちらまでいらして修練に励むようにと――」
ルーラの顔が興奮で赤らんだのに対し、ジルクのそれは胡乱なものに変わる。
「この頓馬、何故そう暢気なのだ。わざわざ、そのような如きで参られる訳なかろう」
「それでは、どうして……」
「お前……、何かやらかしたんじゃないのか。イリュールと昼一飯がどうとも申しておったな」
「……思い当たる節がありません。それにお食事をというのは、不在の医務官様に代わり傷薬をご用意いただいたからで、そのお礼です。この食堂は国庫金にて賄われておりますので、御馳走をできないですから」
ジルクは鼻から息を噴き出し、何処か納得のいかなさそうな面持ちで頬杖をついた。
「それならば良いがな……。そうだ、傷薬で思い出したが、昨日はお前の御蔭で助かった。礼を言うぞ」
「……手当の事ですか。それでしたら礼には及びません。わたしが勝手にした事ですから」
昨日の事を思い出したルーラがつんけんとして言う。
「そのように不満を顔に出すな。剣を交え痛みを知れば自ずと加減も知るというもの。我等にしてみれば有用な修練の一つだ」
日頃は兵士に怪我をさせぬのが身上の軍将殿だが、手加減できぬ程切迫するアナンの腕を棚上げにして如何にも尤もらしく嘯いた。
「ですが……」
「お前もその歳で神官に引き立てられたとなれば、それなりの力あっての事ではないのか。そういう鍛錬があって然るべきだと俺は思うがな」
神官職は概ね世襲ではあるが、その中魔術を操る基とも言うべき特殊な力を持って生まれる者は極数が限られており、それ故縁者以外であっても力を持つ者は法王の許可さえ下りれば例外的に入殿を認められている。特殊能力には主に癒しと攻撃系の二つの要素があり、ほとんどの者がどちらか片方に力が偏るのが通例だ。
「……わたしのは癒しの方です。それに、力があるというだけで操る術をまだ持っておりません」
ルーラは俯いてやや悲しげに言った。入殿してまだ数カ月の見習いの身では、雑用を仰せつかるばかりだ。
「攻撃系の力が全く無い事もなかろう」
「それは、そうですが……」
「まあよい。これからお前も本格的に修練を積む事になるのだ、追い追い覚えるさ」
「……残念ながら、わたしはまだ見習いの――」
ジルクの眉が上がり、言葉を遮られる。
「おい、先刻内示が出たではないか。聞いていなかった訳ではあるまい」
「内示……」
「<灰色の君>が申されておっただろう」
「………。え、ええ! あれって、まさか……」
ジルクはやれやれと額を手で覆った。
「他に何があるというのだ。激励まで頂いておいて、しっかりしろ。くれぐれも法王殿に恩を仇で返すような真似だけはするでないぞ」
「まさか、本当に……。歳が歳故、後数年はこのままかと……」
景気付けにとジルクが小さな背をバンと叩く。
「まあ、無理もないか。史上最年少の神官殿の誕生だ、頑張れ、よ……」
そして、盛大にごほごほと咳き込んだルーラは、ジルクの顔を大いに顰めさせたのだった。
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