アナン・ジェイコフ異聞------疑念01
アナン・ジェイコフ異聞
疑念01
後日正式に神官職へ任命されたルーラは真っ先にアナンの許へと走った。とはいえ二人が会えるのは主に昼食時の限られた時間。なかなかお互い予定が合わず、結局任官を伝えられたのは翌々日の昼だった。
「アナン様!」
混雑を避けていつも遅めに食堂を訪れるアナンは、そこにルーラの姿がないのを理由に表で佇んでいた。しかし名を呼ばれたことに気づき後ろを振り返ると、猛烈に突進してくるルーラに目を留め咄嗟に腕を構えた。
「おっと……。今日はやけに元気が良いな」
勢いよく飛び付いてきたのを難なく受け止めたアナンは、可笑しげにその子兎を抱き上げた。
「よいお知らせがありますっ」
瞳をキラキラ輝かせ、何があったのか問うてくれと言わんばかりのルーラに、アナンは肩を揺らして真っ直ぐ尋ねた。
「何があったのだ」
ルーラはエヘヘと含み笑いした後、叫ぶように言った。
「この度わたしは神官になりました!」
だがアナンは怪訝に首を傾げる。
「……元々神官ではなかったかな」
ルーラは違うのだと頭を振ってまた大声に言った。
「見習いではなく、正式に神官となったのです!」
さも嬉しそうにアナンの首にすがりつき、ルーラは溢れる喜びから足をバタバタさせた。
「わたしも晴れて神官ですっ」
「落ち着け、ルーラ」
暴れるルーラをアナンは足を縺れさせつつ落とさぬよう抱き留める。その顔には苦笑を浮かべてはいたが、眼差しは至極優しい。そして宥めてやっと大人しくなったルーラを足元に下すと、節くれ立った青年らしい硬い手でわしゃわしゃ子兎の毛をかき回した。
「良かったな」
「はいっ。まさかこの歳で、下手をすればなれぬとも思っておりましたのに――! とってもうれしいですっ」
直に喜びをぶつけられ、アナンはまたクックと肩を揺らした。
「それはさぞかし御父君も御喜びであろう」
温和なヴィノク公の顔を遠い記憶より脳裏に呼び戻し目尻を綻ばせる。だが何気なく口にしたアナンの言葉に、ルーラの身体が目に見えて硬直した。
「ルーラ」
不審に思って声をかけるが、口をもごもごさせ宙を彷徨う瞳が何やら怪しい。
「……ええっと……、そうだ、と、思います……」
色の失せた顔を見やり、アナンは眉を顰めた。
「もしやとは思うが――」
アナンの冷えた視線から目を逸らし俯いたルーラは、後ろめたそうにぼそぼそ白状した。
「……まだ言っておりません」
「任命を受けたのは――」
「……一昨日です」
「謁見の申請は。もしくは文を出したのか」
「………」
追及される度にルーラは肩を窄め、更には鼻先が胸に着くくらいに俯いてしまった。
「ルーラ」
咎めるように再び名を呼べば、ルーラはごめんなさいと呟き唇をきつく引き結んだ。
それを見下ろしどう窘めようかと思う。ルーラの身分的事情を思えばあまり厳しくも言えなかった。
実家を出て寝食を官舎に頼っているルーラとしては、ただ父親と会うというだけ単純な行為がとかく面倒だった。いくら実父といえども公爵たる者と一神官であるルーラとでは大きく身分の差がある為、王城で顔を合わせようと思えば一々願い出なければならない。
――解ってはいる。だが、文を出すくらいの心遣いがあっても良いのではとアナンには思えた。
「……泣き虫な兎だ」
ふと気づけば小さな雫がはたはたと土の上を跳ねていた。
良くも悪くも感情豊かなルーラを前に、アナンは一つ溜息を吐き穏やかに言った。
「私に第一に報告してくれたのかな」
ふわりと子供らしい柔らかな髪が縦に揺れる。
泣かせたのは自分であるにも拘らず、アナンはその仕種の可愛らしさに知らず笑みを浮かべていた。
「ありがとう、ルーラ。友として光栄であるし、もちろん昇格したのも素晴らしいことだ。だが御父君は……敢えて言うぞ……お前の出自や性別等、多重苦となれば殊に御心配のはず。いくら親元を離れているとはいえ子は子。成人前ならば尚更だ。解るな」
こくんとルーラは再度頷くと恐る恐るアナンを見上げた。涙を一杯に溜め、瞳が溺れてしまいそうだ。
「……わたしのことをお嫌いになりましたか」
震える言葉にアナンは絶句し、また理解した。
「馬鹿な事を……。だから涙など――」
そしてルーラとしっかり視線が合うよう腰を下げる。更に俯いたルーラの頭に触れようと手を上げたところで、細い肩がびくりと震えた。アナンは渋面を浮かべつつ、怖がらせまいとゆっくり頭を撫でてやった。
「呆れはしたが……、嫌う程ではない」
目に見えて強張った肩から力が抜け、ルーラはアナンの首にしがみついた。
「……こわかった」
心底安堵したというような声にそれ程にも怖がらせたのかと思う。
「私の顔がか」
揶揄を込めて言えば、ルーラの頭がふるふると振れた。
「大好きです」
再びアナンは絶句した。また何かを言って揶揄えば変に墓穴を掘りそうで、ただ無言にルーラの背をやわかく抱き寄せてやる。ふんわりと幼い甘い香りが鼻孔を擽り、兎の毛が頬を掠めた。
不意に何やら固く冷たいものが首筋に当たる。そしてある事に気づいた。
「耳飾りか――」
アナンは胸からルーラを離すと、耳元の髪を後ろにかき上げた。
「――本当に神官になったのだな」
ルーラの耳に光るのは神官たる銀細工の徽章。精緻に作られたそれはアナンの指先にシャラリと揺らめく。
「はい……。ありがとうございます」
まだ涙目ながらもルーラは照れたように笑った。
「涙は治まったか」
ルーラは神妙な顔つきで頭を下げた。
「……すみませんでした」
「もうよい。それに困らせるのはお互い様だ」
アナンは頬を走る傷跡を指で辿り「お前の手当てでこの傷も癒えた」と微笑む。
だがルーラは気まずそうに眉を下げた。
「それは――、ジルク様に傷を創るのも実利ある修練の一つだと叱られましたから……」
だからもう気にしてくれるなと――。
今度はアナンの眉が訝しげに寄った。
「……『実利』とは体良く言ったものだ。一理なくもないが……、単なる言い逃れであろうな、それは」
「言い逃れ……」
「奴には私から言い含めておこう」
事情がよく解らないと瞬きしたルーラだったが、任せておけと口を吊り上げたアナンに、お願いしますと素直に頭を下げた。
「さて、それでは手当の礼と昇任祝いをしなければならぬな。ルーラ、午後の予定はこれまで通りかな」
「はい。神官の仕事や訓練は二日後からなので、慰霊塔の清掃をするつもりですが……」
「では午後から休みを貰えるよう上官に願い出るといい。城を出る準備をしておいで」
「それは――」
アナンは笑みを深めた。
「公爵は難しくとも令夫人には直々に御報告申し上げた方がよい。私の馬で良ければ邸まで連れてゆこう」
「い、いいのですかっ」
俄かにルーラの顔が明るくなる。もし本当に兎ならば垂れていた耳が大きく跳ね上がっただろう。
「良いも悪いも、これは私からの祝儀代わりだ。受け取ってくれぬか」
もちろん受け取るであろうなと片眉を上げれば、ルーラは涙を手の甲でごしごし拭いとびきりの笑顔で答えた。
「受け取らないわけがありませんっ」
アナンは満足気に頷き立ち上がる。
「ではその前に腹ごしらえとしよう」
「あ……、すっかり忘れておりました……」
途端にルーラの顔がしゅんとなる。
「申し訳ありません。わたしのせいですね……」
アナンはまたしても肩を落としそうな兎の頭に手を置くと、見上げてきた顔に首を振り食堂へと促した。
それから素早く食事を終えた二人はそれぞれ私用を済ませ、アナンがルーラを抱えた状態で馬に跨り城を出た。通常貴族(文官)であれば移動に馬車を使うものだが、当のルーラ本人はあまり気にならないようだ。その証拠に今も気持ちよさそうに馬の上でアナンに身を任せている。
そういえばとアナンは思う。神殿に入ってからというもの城から出ること自体なかったのではないかと――。
「首尾よく外出の許可は貰えたのか」
アナンが尋ねるとルーラはやや困ったように笑って答えた。
「少しだけ厭味を言われましたが、今のところ清掃以外に仕事もありませんし……、わりとすんなり許可をいただけました」
「そうか。それは済まなかったな」
逆に厭味に聞こえたかとルーラが急いで否定してくる。
「いえっ。もとはわたしのためですもの」
左右にふわふわ揺れるルーラの髪がアナンの顎を擽る。アナンは笑みを浮かべてルーラの腰をぐいと引き寄せた。
「じっとしておれ」
「うわっ、も、申し訳ありません」
急にカチンと固まったルーラにまた忍び笑いを漏らす。
「素直なのはよいが、過ぎるのも困ったものだ」
「え……」
何事かと振り仰いだルーラの額にアナンは口吻を落とした。するとボッという音が聞こえそうな程ルーラの顔が真っ赤に燃え上がる。
「そういうところが困るというのだ。つい構いたくなるであろう」
「……それはわたしのせいなのですか……」
薄紅を刷いたルーラの唇がつんと尖る。子供のくせ何処か艶めいた仕種に、胸の奥が微かにざわついた。
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