アナン・ジェイコフ異聞------貴人02

アナン・ジェイコフ異聞

貴人02

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「……期待を裏切りませぬな」
イリュールは自室の扉を開け開口一番、心底呆れた口調で許可なくそこで寛ぐ人物に言い放った。それは言わずもがな、先刻イリュールに退席命令を下した張本人である。
「王よ……」
解けた様子で椅子に座り、優雅にティーカップを持ち上げた王は、人好きのする笑みを浮かべた。他人の部屋に勝手に上がり込み、一人茶を楽しんでいるらしい。
「遅かったではないか。休めと言ったであろう」
「……言葉にして聞いておりませぬが。それよりも、我が王は只今執務中であらせられるはず、何故ここに」
「お前の様子を見に来たに決まっておろう。皆に腹を下したと偽ってまで抜けて来たというに、寝台の上や下を探れどもお前はおらぬし、仕方なしにこうして茶を飲みながら待っていたのだ。それをお前はうろうろと出歩いて……。具合の方はどうだ」
「議会に出席できるくらいには元気ですよ」
嫌味をたっぷり込めて言い返す。だが、王は堪えることなく澄まして肩を竦めた。
「今はましになったようだが、議会でのお前の顔は紙を見るようだったぞ」
「それはまた大袈裟な。生まれつきの色白なので」
「生気のある白と、紙の白では全く違う。つべこべ言わず、早く横になれ」
幼子でもあるまいし、とイリュールは内心思ったが、臍を曲げられても困ると素直に従う。寝台に腰を下ろし、そのままの格好で横たわった。しかし、疑り深い王はそれで良しとせず、外套や普段使いの甲を下ろせと言ってくる。催促の手まで差し出され、イリュールはやれやれとそれらを外した。
「ここに来て座れ」
気楽な格好になったイリュールは、手招きされるがまま王の傍らに進み出る。そして、何故か王に背を向けて椅子に座らされた。
「え……」
背後で衣擦れが聞こえ、急に頭が軽くなる。
「随分と長いな……。天上の河とはこのことか」
結わえた髪に留めていた櫛を王が外したらしい。肩に垂らしていた白金の毛先が、さらりと腰まで流れ落ちた。感歎の声が王の口から零れる。更に、驚く事に王は懐より紐を取り出すと、今度は解いた髪を緩やかに編み始めた。
「……陛下が伸ばせと仰ったのではありませぬか」
いつもの憎まれ口から勢いが削げる。
「そうであったな。艶やかな髪だ。年を追う度に美しくなる」
「いいえ、そのような……。年旧る毎に色褪せる一方かと」
「……そうか」
その後一時、二人して無言になる。いつになく漂う穏やかな空気は、イリュールを居心地悪くさせた。
昔から王はイリュールに対して過保護ではあったが、それが酷い時にはまるで己が女と錯覚するくらいに甘やかだった。仕えて十数年経つもののイリュールは未だそれに慣れず、王が結い終えたとばかりに背を叩いた頃には、緊張から身体がすっかり凝り固まってしまった。
「手際が良いですな。何処ぞの女の髪でも結わえておられたのか」
居心地悪さをからかいで払拭しようと、王を振り返りにやりと笑う。
歳を重ね落ち着いたとはいえ、以前は好色で名を馳せていた王だったのだが……。
「母とお前だけだ」
至極真面目に答えられ、イリュールの笑みは瞬時に固まる。狂った調子を立て直す為に言った皮肉は、不覚にも王の亡母を想起させた。
「とんだ失言を……」
叱責を覚悟して深々と首を垂れたイリュールに対し、しかし王はただ微笑を浮かべただけだった。
「久々で上手く出来なんだが懐かしかった。礼を言うぞ、イリュール」
そして、困惑するばかりのイリュールを寝台へと誘なう。労わるように背に当てられた手の温もりが、胸に痛かった。
「……私の事などより、議会を放っておかれて宜しいのか」
漸く床に就いたイリュールは、シーツを引き上げ寝台の隅に腰かけた王に向け、見舞って貰った後ろめたさを一先ず差し置き、気掛かりを口にした。
「そろそろ戻ろう」
しかし、あっさりそうは言ったものの、王に立ち去る気配はない。もう一押しかと今度は礼を言う。
「臥所にまで足を御運び頂き有り難く」
「仕事に精を出すのも良いが、宰相であるお前は国を支える柱の一つ、体調管理も国の為と心得よ」
やはり王は目尻を綻ばせるのみ、腰を上げもしない。
(……どうやら寝入るのを見届けるつもりでいるらしい)
イリュールは溜息を零すと共に、不承不承頷いた。
「……ところで陛下、迷惑ついでに一つ御願いが」
どうせここに居るのならと、すっかり腰を据えた王に申し出る。
「珍しいな。申してみよ」
「使い立てするようで恐れ入りますが、三刻程で起こして頂きたい」
王の眉尻がぴくりと跳ねた。
「この期に及んで、お前も大概しつこいな。今日は一日休め」
「いいえ、仕事をするのでは……。明日、ある者と食事をしようと思っているのですが、場を設ける為に根回しする必要があるので」
「ほう。ある者とは」
向けられる白い目に怯む事無く、イリュールは口を開いた。
「神官見習いのルーラ・ヴィノク殿です」
「ルーラ……」
王が思案げに顎に手を遣る。
「ああ、ヴィノク家の坊やか。特例で拝官を許可してくれと法王より要望書がきておったな。それがどうかしたのか」
「いいえ、これと言って今のところは。ですが……」
またも珍しい事に言い淀むイリュールを、王は不審そうに見やった。
「どうした、続けよ」
「……それが、どうやら我らが師に近しくしているらしいと。余計な世話だと思いつつ気になった故」
「近しいのが何か問題……。いや、彼の者は両性であったな」
要望書に書かれた法王の清直な字を思い起こす。王は吐息のように言った。
「……ユリナ・ユリオスを髣髴させると言うか」
ユリナ・ユリオス――半陰陽として莫大な力を備えていた神官。それが故、己が身のみならず愛する人までをも悲劇に陥れてしまった。
アナンを五年もの間城から遠ざけた真因。
「ええ……。害を及ぼすとまでは思いませぬが、せめて人柄や内面性くらいは知っておきたい」
「なるほどな……。師にしてみれば有難迷惑であろうが……」
過去を想い悲しむように瞳を伏せたイリュールに、王は眼差しを温和にやる。
「三刻だな……、相分かった」
「すみません」
そして、いつになく覇気のない顔を覗き込み、気にするなと微笑んだ。
「私を使い走りにするのはお前くらいのものだ」
「重ね重ね――」
「いや、お前なればこそ、か。快く承ろう」
気障ったらしく王が片目を瞑る。しかも、たっぷりの茶目っ気を含ませて。それに対しイリュールも決まり悪げではあるが笑みで返した。
「……貴方は私に甘過ぎる」
図らずぼそっと出た呟きをしっかり耳に留めた王が快活に笑う。
「お前もしっかり甘えておいて何を言う」
「議会を退席させたのも同様。一人を贔屓にして良い事はありませぬぞ」
一度引っ込んだはずの怒りが再浮上する。併せて言葉の端々に、イリュールらしいいつもの刺々しさが滲んだ。
「単に拗ねたのかと思えば、怒りの種はそれか」
王にすっかり子供扱いされ、イリュールの纏う空気がぐっと冷える。
「解っておられるのでしょうに」
王はさもまた愉快そうに笑った。
「私なりに意図あっての事だ。お前は気にせず構われておれば良い」
甘やかしに意図等とそんなものあるかと反論したいところだが、不毛な言い争いに発展しかねない。イリュールはぎろりと王を一睨みし、横たわったまま身体を背けた。その背に同意しかねると含ませ、瞳を閉じる。
「イリュール、もう……」
いつの間にかとろとろと眠りに誘われる内、自覚するより疲れていたのだろうイリュールは、耳元でおやすみと心地よい低音で囁かられると、緩やかに意識を深く沈めた。
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