アナン・ジェイコフ異聞------貴人01

アナン・ジェイコフ異聞

貴人01

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毒舌有能で知られる宰相イリュール・レンダーは、宮殿の廊下を眉間に深く皺を刻ませ、端々に立つ衛兵等を慄かせながら足早に歩いていた。その身には濛々とあらんばかりの怒り(もしくは八つ当たり)のオーラを纏っている。
(よりによって王に悟られるとは――)
無下に扱われたのを思い返し、イリュールの眉間が更に険しくなる。
体調が悪いのを押し議会の席に着いたはいいが、王は彼の顔を一瞥したのみ、訳も聞かず扉を指差したのだ。
――無言の退室命令。
王はたったそれだけの指図をイリュールに示し着席を認めず、珍しく自ら開会の音頭を執り出す。イリュールから放たれる怒気のこもった鋭い視線をものともせず、飄々として議題を読み上げる様は見ていて憎々しい。反論の余地も与えられなかったイリュールは、憤懣やるかたなくも異議異存を飲み込み、甲高くヒールを鳴らすとこれ見よがしに荒々しく扉を後ろ背に閉めた――。というのはつい数分前の事。
(のらりくらりと確信を避ける爺共(もとい貴族様方)を相手に、山のようにある議事を私抜きでどう捌くと言うのだ)
易々とは休めないほどの忙しさであるのに、貧血気味だと言うだけで欠席するのは、自他とも認める<仕事の鬼>にしてみれば諾し難い事態だ。にも拘らず大人しく退席したのは、王がことイリュールの体調に関しては何故か異様に神経質だからである。下手にくしゃみ一つしようものなら寝台に連行されるくらいに口喧しい。とはいえ、イリュールもイリュールでうんざりとしつつも結局は王命故にと、諾々と受け入れているのだから王も甘やかす一方だ、というのは配下一同の談である。二人のやり取りは、精悍な王とそれと対照的なイリュールの女らしい面立ち(身体は不釣り合いに筋肉質だが……)の所為か、痴話喧嘩のようにも見え、まるで新婚さんだと皆内心微笑ましく思っていた。
王妃不在の今、頭脳容姿とも優れたイリュールが女であったならと残念がる声は少なくない。しかしそれは下働きの者達の間でのみ上がる話題で、王はともかく、もし宰相殿の耳に入れば後々予想される報復に、貴族等は素知らぬ顔をするばかりで口にまでは上らせなかった。王は面白がるだろうが、美貌の御方はきっと冷笑と共に彼等の息の根を止めにかかるだろう。僻地任務か遠方討伐、最悪爵位返上か……等々、本来の意味でもすっかり鬼扱いである。しかし、彼の宰相殿がその実心根の優しい御仁だというのも承知の上。正しく弁える老獪な貴族等は、イリュールを毛並みは美しいが少々気の荒い猫、いや鬼嫁もどきと心得、密かに頬を弛めていた。もちろん御両人には内密の事である。
さて、話は少し逸れたが、諸々そういった事由でイリュールは不機嫌でいた。突如襲った眩暈にふらつく身体を手摺りに預け、階段を慎重に下りてゆく。
(このまま自室に戻るのも癪だ。医務室に寄ってから城を抜けるか。いや、王が様子見に来るやも知れぬな……)
医務室は皆の利便性を考慮し、城の一階に設けられている。薬品独特の臭いが籠るそこにイリュールはのろのろと下り立った。額を掌で押さえ視線を上げれば、目当ての部屋の前で一人の少年が所在無げに佇んでいた。
(先客か……)
神官服に身を包んだ彼は、ドアノブを引いたり押したりしては溜息を吐いている。平素ならば無視を決め込むところだが、医務室に用のある今そうはいかない。イリュールは体裁を整えるとその少年に近づいた。
「如何されましたかな」
突然声を掛けられたルーラは身体を大きく一つ震わせ、イリュールを振り仰いだ。
「あ、あの……」
「医務官殿はおらぬようですな」
戸惑うルーラをあっさり無視したイリュールは冷めた声音で言い放ち、ひっそりと静まった扉の向こうに気を遣った。
「……ええ。お出掛けのご様子です」
ルーラはさも困った風に眉を下げ、イリュールに倣って扉を見つめる。だが、イリュールは無言でルーラの身体を脇へ押しやると、腰に下げていた鍵の束の中から一つを取り出し、あっけなく解錠した。ぽかんとするルーラを尻目にさっさと扉を抜けてゆく。
「何を呆けているのです。用があったのでしょう」
嫌味を投げつけられ我に返ったルーラは、慌てて後ろを追いかけた。
「か、勝手に入っても宜しいのですかっ」
「斯く言う貴方もしっかり入っておりますな」
またしてもイリュールの口から皮肉が飛ぶ。そして、気まずげなルーラを取り残し部屋の奥まで進むと、薬棚から薬瓶を、一つ一つそのラベルを確認してはテーブルに置いた。淡々と幾つか選び、一通り必要な薬を並べたイリュールは、そこでやっと傍らでおろおろと待つルーラに向き直った。
「ところで貴方の必要なものは」
「え……」
端的に尋ねられ、またしてもルーラの動きが止まる。
「無ければそれで結構」
入った時同様さっさと出てゆこうとするイリュールを、ルーラもこれまた先刻と同じように追いかけた。
「あ、あのっ。きずっ、傷薬が欲しいのですが!」
イリュールの歩みが不意に止まる。振り返りじろりとルーラを見下ろした。
「それを先に申されよ。もたもたしておられる場合か」
わざわざ薬を貰いに来るくらいには傷が深いのだろう。
「申し訳あ――」
「見たところ貴方がというわけではなさそうですな。当人の怪我の程度は。どういった経緯で」
徐々にイリュールが目を眇める。それを、ルーラは咎められていると感じたのか、伏し目勝ちにか細い声で答えた。
「……それがその、軍部で個人の力を競う試合がありまして……、主に剣による創傷と打撲です。ご本人達は水で流せば大丈夫だとか、舐めときゃ治ると仰られたのですが、わたしが心配で……」
「ほう、それは珍しい。大将殿が大事な兵士等に怪我をさせるとは」
「兵士の皆様は大丈夫です。ただ……」
口籠ったルーラに代わり、思い当たる節が大いにあるイリュールは、辟易と言葉を引き継いだ。
「……アナン・ジェイコフ殿は別として、でしょうな」
「ご存知なのですか」
アナンの名が出た途端、再びルーラは大きな瞳をくるりと上げた。それに応えて頷く。
「この国屈指の騎士ジルク・マクラインが加減の出来ぬ相手とは、王と私を除いて我が師しかおられぬので」
「そうですか、それで……。で、でも、あれ……、それほど腕が立たれるという事は、貴方は一体……」
目を見開き己に向けて指を差すルーラを余所に、イリュールは再び薬棚に戻るとあちこち戸を開けた。
「さて、刀傷となればこの薬草が宜しかろう。それから、消炎用の湿布と、鎮痛薬……は要りませんな。少々痛い思いをされた方がよい」
そして、ルーラの腕を拾い上げ、どっさりとそれらを手渡す。
「も、もしや、宰相様ですかっ!!」
もたつきつつも零さず受け取ったルーラは、勢い込んでイリュールに声をあげた。
「……そのようですな」
「こんなお近くでお目にかかれるとは……っ」
頬を紅潮させて、如何にも感激という風情のルーラに対し、イリュールの反応はやはり冷めたものだった。
「一応これで足りると思うが、もし他に要り用があれば私の許へ参られよ。執務室に詰めている、と言いたいところだが王が邪魔しに来る可能性がある故……、仕方あるまい、私室の方へ」
ルーラの言葉にほとんど耳を貸さず、己の用件だけを面倒臭げに言う。
「知らなかったとはいえ、御無礼を……」
平静であればそれに落ち込むはずのルーラも、興奮からかあまり気にならないようだ。マイペースに自分の言いたい事を言い募る。
「綺麗な方だとは聞いておりましたが、これほどとは思――」
「他に用はありませぬな。では、これにて」
惚けるルーラを放置し、選び出した薬を懐にしまって一旦その場を離れようとしたイリュールだったが、「ああ、それから……」と何やら思い出したように足を止める。
「急がれた方が宜しいぞ。あの御二人の事だ、経験から想像するに、本当に傷を舐めとっただけ、今頃二戦目を始めていよう」
基本的に仲は良いが、いざ争いとなると時折子供っぽい意地の張り合いをやるのだ。
「ええっ! と、止めなくては!!」
アナンに関する言葉には、ルーラにのみ効果ある呪いがかかっているとみえる。
やっと正気に返ったルーラの身が兎の如くぴょんと跳ねた。そして、こうしてはいられないと駆け出す姿もそれこそ脱兎のようだ。
「待たれよ、ヴィノク殿。この礼は昼一飯で手を打つという事で、近い内にぜひ」
「は、はいっ。ありがとうございました。それでは!!」
口早に言われたイリュールの誘いを振り向きざまに聞くというおざなりさだったが、ルーラがやれば不思議と嫌な感じはしない。とってつけたようにひょこっとお辞儀をし去ってゆくルーラを見やり、イリュールはすっかり毒気を抜かれ脱力した。
『待たれよ、ヴィノク殿』
イリュールは意識的にそう言った。
――初対面にも拘らず、何故一神官の、しかも見習い如きの名を知っていたのか。
情報活動に秀でた宰相殿には、城内で起こった出来事であれば瑣事でさえその耳に入る。昨日軍部で起こった諍い紛いも例に漏れず――、である。
「天然惚けの向きが気に入られたのか……」
そして、敬愛する己が師を想う。
「半陰陽の神官……。心配要らぬと判ってはいても、不吉に思うのは如何ともし難い」
そう呟いたきりイリュールは、しばらくルーラの消えた方へ視線をやっていたが、やがて溜息と共に踵を返し自室へと足取り鈍く戻って行った。
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