アナン・ジェイコフ異聞------情実02

アナン・ジェイコフ異聞

情実02

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庭園を横切り食堂に往く道すがら、緊張感を纏うルーラにアナンは何の言葉もかけることができなかった。当然会話もなく、官舎に近づくにつれルーラの足取りが重くなるが、アナンはさりげなく強引に連れてゆく。だが、やがて食堂の玄関が視界に入った途端、とうとうルーラは足を止めてしまった。
「ルーラ……」
そのあまりに強張った様子に、一方で、何もここまで無理にすることもなかったかと思い、また一方では、このまま放置していてはルーラの為にならないとも思われ、食堂を目前にアナンは今更ながら迷った。
「どうしても無理だと言うならば……、今日はやめておくか」
ルーラは顔を上げた。アナンが困ったように眉を下げ、自分の顔を覗き込んでいる。
親切な友人を前に、行きたくないとは言えなかった。断りたい気持ちは山々だが、このまま引き下がってしまえば、きっと落胆させてしまうだろう。また、自分に呆れて、二度と会ってくれなくなってしまうかもしれない。彼の人格を疑っているわけではないが、人の心が移ろいやすいものだということを、ルーラはよく理解していた。
なけなしの勇気を振り絞る。
「……いいえ、行きます」
控えめだがしっかりと紡がれた言葉に、アナンは幾分ほっとした。年の離れた幼い友人を見やり、深入りしたからには出来うる限りの力を貸そうと、改めて思い直す。そして、小さな友人に向け、手を差し伸べた。
「おいで」
手を繋ぐなど何年振りだろう。ルーラの顔を窺えば、手を凝視し固まっている。気分を害しただろうかと、心持ち不安になったが、ルーラはやはり俯き加減で、それでも大人しくアナンの手を握った。その力の頼りなさが庇護欲をそそる。アナンはフッと口元を緩め、ルーラの手を強めに握り返すと、共に食堂へ入っていった。
食堂に入れば、がやがやと会話に溢れ、皆くつろいだ様子で食事を楽しんでいる。併設された対面式の厨房内は活気があり、その中、下働きの男等に指示を出す女の声が一際耳につく。肌の浅黒いゆったりとした体型の婦人が中心となり、房内を仕切っているようだ。
アナンは早速彼女に目をつけ、声をかけた。
「そこの御婦人。今日のお勧めは何かな」
声を掛けられた彼女はきょろきょろ辺りを見回し、そして、自分を指差しながら大袈裟に眼をぱちくりさせた後、豪快に笑った。
「あたしはご婦人なんて柄じゃないよ!」
言葉を取り違えたかと、アナンは真面目腐った顔で応じる。
「これは失礼、御嬢さん」
すると、今度はどっと調理場全体が笑いに包まれた。
「エンマがお嬢さんだってよっ!」
「いったい、いくつまでがお嬢さんなんだぁ?」
「それじゃあ、俺の祖母さんも立派なお嬢さんだ」
一斉に冷やかしが飛び交い、件の御婦人は腹を揺すりながら、五月蝿いと一括すると、アナンに向けてニッと笑みを浮かべた。
「あたしのことはエンマと呼んでおくれ。新鮮な魚のムニエルが今日のお勧めだよ、男前なお兄さん」
アナンも、こちらこそ御兄さんという柄ではないと苦笑いしながら頷くと、自己紹介がてら、自分も名で呼んで欲しいと申し出る。
「アナン・ジェイコフだ。私のこともアナンで良い。世話になる」
エンマはどういう基準からか、名前も男前だと軽口を叩き、アナンに向けて手を差し出した。
しかし、和やか空気が流れたのも束の間、この後アナンの仕出かした突飛な行動の所為で、エンマの顔から余裕がすっかり失せることとなる。
「腹減ってんだろ? それを寄越し……、な、なっ!?」
恭しくアナンがその差し出された手をとる。途端に、エンマの頬が真っ赤に染まった。
「なにすんだ! ちょ、ちょっと!!」
周りの皆が呆気にとられ、たっぷりと間を置いた後、あちこちからピューピューと口笛が鳴り、囃し立てられる。

件のアナンといえば、エンマの荒れた手を優雅に持ち上げ――、
礼儀正しくその指先に、口吻けを落としていた。

「ア、アナン様っ」
やっと我に返ったルーラが、焦って外套の裾を引く。
気の毒にもエンマはただ、アナンにおかずを入れる為のプレートを寄越せと手を伸ばしただけだった。だが、思いがけず、年若い青年に騎士たる礼儀を施され、庶民故に慣れないエンマは、動揺から取り乱した。
「て、手を放しとくれ!」
身も世もなく悲鳴をあげると、さっと手を引き抜き、エンマは厨房の奥へ引っ込んでしまった。
その場に取り残されたアナンは、茫然とエンマを見送る。
「……ルーラ、私は何か拙いことでもしてしまっただろうか」
「い、いいえ……。間違っていたわけでもないのですが……」
惚けたことを言うアナンに、ルーラは困り果て、または、皆の笑いを誘った。
「あはははっ、俺等にはちょいと刺激的なご挨拶だったねぇ」
「あのエンマが、あんな真っ赤になるとはなぁ!!」
「この色男め!」
身を乗り出し口々に揶揄われ、アナンは居心地悪げに頭を撫でた。
「どうやら、エンマ殿に悪いことをしたようだな……」
「いえ、その……」
どうとも言えず口を濁すルーラに、下男の一人が助け船を出す。
「別に悪かないさ。むしろ、あんたみたいないい男にお嬢さん扱いされて、悪い気はしなかったろうよ」
「……そうであれば良いのだが」
「そんなことよりも、飯を食いに来たんだろ? 皿を寄越しな」
男はさっさと話を打ち切ると、指をくいっと手前に引いた。
「皿……。ああ、これだな」
手ぶらだったアナンは、配膳台にあったプレートを取り上げ、二人分を男に渡した。
「あいよっ」
男はふんふんと鼻歌交じりに、鍋いっぱいのおかずをおたまで掬い、それぞれの皿に盛ってゆく。
アナンは図体がでかいからと、おかずをてんこ盛りに盛られ、ルーラは育ち盛りだからと、アナン以上に大盛りにされる。更に、お子様大サービスだと言って、甘いミルクをたっぷりかけた、山盛りの果物まで押し付けられた。
嫌がらせかと言いたくなるほどの盛りっぷりではあるが、男に嫌味の陰は全くなく、むしろ感謝しろと言わんばかりの笑顔だ。
アナンは苦笑を浮かべ、ルーラは悲壮感を漂わせた。
「……ありがとう」
機嫌良くプレートを差し出す男に、二人は大人しく、それを受け取らざるを得なかった。
「そんなにも気落ちせずとも、私が手伝うさ。それに、あの男も親切心で、……多めに入れてくれたのだから」
実際は、多めどころか五人前くらいはありそうな量だが、ルーラの心中を察し、控えめに慰める。あまりの多さに涙さえ浮かべるルーラを労わりつつ、アナンは空席がないか見渡すと、窓際の席に向かった。
隣同士、肩を並べて席に着く。他のどの席も談笑の声が賑やかで楽しげだが、二人の周りにのみ、どんよりと重い空気が圧し掛かる。ルーラとアナンは改めて皿の上に乗る大量のおかずやパンを見やり、同時に溜息を零すと、二人向き合って苦笑いした。なんとか逃れる術は無いかと後ろを振り返り、こっそり調理場を窺うが、運悪く先程の男がこちらに気づき、愛想良く手まで振ってくる。慌てて二人して正面に向き直った。
「これは、どうあっても食べる他ないようだな……」
「ええ……」
そして、意を決したように頷き合い、徐にフォークを取り上げた。
「いつも昨日のように、弁当を持って一人で食事を?」
アナンの問いに、ルーラがこくんと顎を引く。
「はい。雨の日はともかく、だいたいは庭の木陰で」
「まさか、自分で弁当を作っているのか」
「いえ、そこまでは……。いつもは調理場の裏口から入って、持参した籠に詰めてもらっています」
「そうか……」
呟きを残してアナンは押し黙り、何となく会話が途切れた。

周りの喧騒に包まれる中、二人黙々と食べ続ける。ただ食事をしているだけだというのに、どこか不思議な感覚だった。それぞれ大量の食べ物を前に苦戦しつつも、お互いの存在があるからこそ頑張れるという、そこに生まれた奇妙な連帯感。同志のようにも思えてくる。
そうして食事が進むにつれ、二人の間にあった堅苦しさは、自然と抜けていた。

「貰うぞ」
隣で苦しそうにのろのろとフォークを口に運ぶルーラから、パンと一品を攫ってゆく。
「あの……?」
見上げてくる不可解そうな表情に、頭上に疑問符でも浮かんで見えそうだと、アナンは笑った。ルーラがますます首を傾げるが、アナンはなんでもないと首を振る。
「お前の分は全体的に量が多い上、甘味まで付いて大変であろう? 私なら腹にまだ余裕があるし、これぐらい大丈夫だ」
「……でも」
「先刻、手伝うと言ったではないか」
ルーラは逡巡するように瞳を伏せた。まだ大量に残るおかずが、嫌でも眼に入る。ルーラは諦めの溜息と共に、申し訳なさそうに頭を下げた。
「お願いします……」
「承知した」
アナンは笑みながら、快く請け負った。

しかし、結局は全部食べ切れなかった。戦争時等で、食べられるときに食べておかなければならない状況下に備え、食料をあるだけ胃に詰め込むという鍛錬をしていたアナンは、なんとか自分の割当分は食べたものの、ルーラの分までとなると流石に腹を壊しそうだった。
仕方なく、厨房まで行き頭を下げれば、元凶の男は少々残念そうな顔をしたものの、残飯を籠に詰め手渡してくれた。ちょうどエンマも調理場に戻っており、早速アナンが謝罪の言葉をかける。エンマは眼を真ん丸く開き、文句を言う間もなかったと照れくさそうに不満を零したが、長く根にもたない性質なのだろう、次は間違えずに皿を寄越しなと言って、とびきりの笑顔を二人に送った。
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