アナン・ジェイコフ異聞------情実01
アナン・ジェイコフ異聞
情実01
昼飯を済ませ、アナンは自分の宿所として与えられた客間から、窓外を眺めていた。ただ眺めると言っても、何かしら景色が目に入っているかというとそうでもなく、アナンの頭の中は先日王と宰相より要請された入軍のことで占められ、眼下に広がる美しい庭園に、見るでもなく視線を向けていた。
城に来てからすでに三日が経つ。王にはユリナの墓参りを終えた後、去就の返事をすると伝えはしたが、未だはっきりと決めかねていた。
――すぐにでも田舎に引っ込むつもりでいたのだが……。
アナンは溜息を吐いた。拝謁の際、儀礼的な決まり文句だったとはいえ、それとなく国に仕えるよう命ぜられ、それに諾と応じたのは虚言ではないし、王への忠誠心も五年前より少しも変りない。ただ、軍に戻ることには些か躊躇があった。もちろん、騎士たる者、剣を振るうことでしか国の役に立たぬとは重々承知している。しかし、己の失態で、身近い者が犠牲を被るのは、五年前の有事で懲り懲りだった。
――こうなれば剣を教えるのみ、軍議等には参加せぬという方向で、王に願い出るしかあるまい。
アナンはまた一つ溜息を零すと、外界に意識を向けた。
まだ正午を一刻程過ぎたばかり、皆食事をとっているのだろう、宮殿はひっそりと静かだ。眼下にある広大な庭にも人影はない。だが、たった一つ、そのなかで、きらきらと陽光を受けながら、淡い栗色の兎が木々の合間を駆け抜けてゆくのが目に留まる。ぴょんぴょんと何かから逃れているのか、その走りは俊敏だ。随分すばしこい奴だと思いつつ目で追っていると、不意に視界から消える。何処に行ったのかと、隣の窓に移り、また庭を見下ろせば、その兎は木の根に腰を下ろし日向ぼっこをしていた。
――ルーラか……。
木々から覗いた栗毛は、ルーラの頭だったらしい。周りに人の気配はなく、一人だ。
アナンは首を傾げた。
だいたい、客人として城に迎えられている自分や要職の者を除き、兵や神官等は食事を官舎の食堂でとるものと、ほぼ決まっている。場合によって、自宅が近い者は戻って食事をすることもあるだろうが、ルーラの実家であるヴィノク家の屋敷は、城より少々離れている。少なくとも、昼休憩中に戻るのは困難だ。
あのようなところでぼんやりしていれば、宮仕えは多勢な分食い損ねるのでは――。
アナンは妙に心配になり、外套を取りあげると、廊下に続く扉を押しやった。
外に出たアナンは、窓から大凡の場所を把握していた為、広大な庭ではあるものの、あまり苦なくルーラを見つけ出すことが出来た。
先刻同様、木陰に座り込み、呆と空を眺めている。
「お一人かな」
そう声をかければ、ルーラは吃驚したように大きく瞠り、アナンの姿を瞳に映し出すと、慌てて立ち上がった。
「騎士様っ」
小さく叫び、そして、居心地悪そうに微笑んだ。
「どうして、こちらに? 御昼は召しあがられましたか?」
「アナンで良い。昼は自室……、いや、これからだ。貴殿は?」
アナンはルーラがまだだと言うなら昼飯につき合ってもいいと、微妙に誤魔化した。
「いいえ、わたしはもう済ませましたので……」
ルーラが視線を落とした先には、籐籠が置いてある。恐らく、その中に昼弁当を詰めていたのだろう。
「そうか、残念だ。貴殿と食堂にでも行こうかと思ったのだが」
またもや、驚いたような眼をしたルーラを見やり、アナンは片眉を上げた。
「私は友人ではなかったか」
「あ……」
ルーラははにかんで俯いた。
「あの、ありがとうございます」
「では、改めて今晩はどうだろう」
頬を丸く染めたルーラを見やり、自分でさえ思いもよらぬ言葉がするすると、アナンの口を衝いた。
だが、ルーラの表情はさっと暗いものに変わる。
「それは……」
「ご迷惑だったかな」
「い、いえっ、むしろお誘いいただいて嬉しいです!」
とんでもないと、過分に頭を左右に振る姿が可愛らしい。兎と間違えたのは無理もないことだと、アナンは笑みを浮かべた。
「晩に予定が御有りなら、食後の甘味でも御一緒にいかがだ」
まるで、女を誘う文句のようだと思いつつも、相手はまだ子供なのだからと、特に気にするでもなく言い重ねる。
しかし、一方、ルーラは困惑した表情を浮かべるばかりだ。
「食べたばかりで、お腹がいっぱいで……」
心底困ったように眉を下げる。だが、アナンは彼にしては珍しく食い下がった。
「ならば、湯茶だけでも――っ!」
突然、ルーラはアナンの傍に爪先立つと、その唇を両手で塞いだ。
咄嗟の事に、アナンの動きがぴたりと止まる。
――ご迷惑をおかけしますから……。
ルーラは消え入りそうな小声で早口にそう言うと、籠を拾い上げ瞬く間に走り去って行った。
「待たれよ!」
情けなくも、一瞬間を置いてから我に返り、引き留めようと伸ばした腕が宙に浮く。
何かルーラの意に染まぬことでも口にしてしまっただろうか――。
追い駆けて捕らえられぬことはなかったが、消えゆく華奢な背中を見つめ、ただルーラの心中を想った。
先日、友人になってくれと請われたが、今になって急に、ルーラの気が変わったのだろうか。
それとも、ルーラの思う友人関係に、食事を共にするという項目は含まれないのかもしれない。
または、騎士と神官という組み合わせは珍しく、衆目を集めるのが面倒だったからだろうか――。
あれこれ思い巡らすが、見当をつけるだけの材料が少ない。それに、(外見はさておき)実質四十も歳が離れていれば、若いルーラの思案など、自分には到底理解出来ないことなのかもしれないと、そうも思えた。
「だが……」
ルーラの消えた方を見つめたまま、ゆっくり腕を下ろす。
「友人になると言ったからには、放って置くわけにもゆくまい」
義理堅く昔気質のアナンはぼそりと呟き、ルーラが置き忘れて行った櫛に視線を落とした。
翌日の昼下り、アナンは昨日と同じように、窓外を眺めていた。昨日は無意識だったのを、今日は栗毛の兎を見逃すまいと、眼を皿のように凝らす。
程なくして、その頬に笑みが浮び、アナンは外套を翻すと、足早に庭園へ向かった。
「これをお探しかな」
見るからに身体を震わせ、ルーラはアナンを見上げた。葉を一片頭に乗せ、四つん這いになっている様子に、櫛を捜しているのだと気づくのは容易だった。
「それはっ」
ルーラはアナンの掌にある櫛を認めると、小さく歓声をあげて彼に駆け寄った。昨日、アナンから逃げるように去ったことを、櫛を見つけた喜びで、すっかり頭から追いやってしまったらしい。満面に笑みを広げ、ありがとうございますと元気よく礼を言う姿を見やり、アナンは悪戯っぽく目尻を綻ばせた。
「御機嫌は直られたか」
「ごきげん……? あっ」
ルーラの表情が見る見る落ち込んだものへと変わってゆく。
「……昨日は失礼をして申し訳ありませんでした」
アナンの顔を見ずに頭を下げる。
「何か貴殿の気に障ることでも申しただろうか」
「いいえ、そういうわけでは……」
「迷惑をかける、というようなことを言っておられたな」
「………。」
口籠もるルーラに、少々問い詰めるような言い方だったかと、アナンは顔を顰めた。
ルーラの視線は落ちたままで、その心情までを慮ることは出来ない。ただ、僅かに垣間見える唇は、きゅっと噛み締められていた。
「友にも言い難いか」
ルーラには有効だと思い、わざと意地の悪い言い方をするものの、だんまりを決め込んだまま何も言おうとしない。
アナンは思わず溜息を吐いた。それを敏く耳にしたルーラの身体が、怯えを含んで小さく揺れる。しまったと思いつつ、アナンは注意深くそっと細い肩に手を置いた。このままでは、いつまで経っても埒が明かない。とりあえず、何処か落ち着いて話の出来る場所へ移ろうと、ルーラを促した。
「昼飯はまだであろう。とりあえず食堂へ――」
今度はルーラの身体があからさまに震える。勢いよくアナンに向けて顔を振り上げると、大きな瞳に涙を浮かべて首を振った。
「しょ、食堂へは駄目です」
「……何かあるのか」
「どうしてもと仰るなら、どうぞお一人で……」
「理由を聞かぬまではどうともできん」
「それは……」
ルーラは視線を逸らし、俯く。だが、納得するまでは動かぬとでも言うような、アナンの頑なな態度に、ルーラは密やかな息を吐くと、言い難そうに口を開いた。
「わたしは自分が両性である為に、皆から嫌悪されているのです。例えば、こちらから挨拶をしても、わたしの存在さえ無いかのように扱われ、誰一人、わたしに近づこうとする者はおりません。更に、大勢集まる食堂ともなれば、皆の態度は露骨ですから……」
深刻に言うルーラに対し、アナンはどうということもないような事柄に思えた。実際、神官であったユリナも、城内で憂き目に遭ってはいたが、天性の明るさで乗り越えていたのだから。
「私もいるのだ。頓着することもあるまい」
そう言って微笑むが、対照してルーラの顔が真っ青に変わる。
「い、いいえっ、できれば別の場所へ」
「大丈夫だ。心配ない」
「アナン様!!」
腕をとられ、無理やり連れて行こうとされたルーラは、金切り声をあげた。
「何故、そこまで捉われる」
アナンは眉を寄せながら、それでもあっさりルーラを手放した。
解放された腕で巻きつけるように、ルーラは震えたままの身体を抱き締める。
「……わたし一人であれば、まだ耐えられるというもの。ですが……、アナン様が嫌な思いをされてはと考えると、とても怖い」
「私は気にせぬ」
「アナン様……、わたしは……」
一旦息を詰め、重く口を開いた。
「せっかく出来たお友達を、失いたくないのです……」
そして、胸を衝くような自嘲的な笑みを、ルーラは浮かべた。
「これまでも、わたしを憐れんで声をかけてくれた者は少なくない。ですが、あまりに陰湿な仕打ちに耐えられず、結局は皆、わたしから遠ざかってゆきました」
「……皆、全てか」
こくりと首肯され、あからさまな渋面となる。
「安心してください。偽善と思われるかもしれませんが、彼らには恨みも何もありません。ただ……、悲しいだけで……。全てはこの性故、ですから――」
皆を責めることなく、己の所為だと言うルーラに、ますますアナンは顔を顰めた。アナンにしてみれば、神官等の性根の問題だろうと思える。だが、それ以上に……、見くびられたものだと感じた。
「――それは、屈辱だな」
低くなった声音につられ、ルーラはアナンを見上げた。
「この私も皆と同じだと言いたいのか」
ひたと見据えられた眼差しは鋭く、まるで猛禽類にでも対峙した気分になる。喉が一気に干上がり、ただ、それは決して違うと首を振った。
「そういうことであろう?」
「ち、ちがっ」
必死に出した声が、掠れて頼りないものになる。
「そんなにも不信に思うならば、私を試すがいい」
アナンはルーラに向かい、僅かばかりの距離をじりじりと迫る。
「あ、の――」
「友になったばかりどころか、出会って間もない私を、すぐさま信用するというのも無理があるのは承知。では、貴殿自身の眼で私を試験すればいい。己の友に私が能うかどうかを」
「そんなっ」
「私は引き下がるつもりはないよ、ルーラ」
「アナン様……」
心に痛いほどに温かい言葉を信じたい。けれども、脳裏を過ぎる、変心した者たちの残像が、すぐにはルーラを信用させなかった。
「さあ、参ろう」
アナンの瞳に強い意志を見て取ったルーラは、諦めを含んだ哀しげな笑みを零し、肩を抱かれ導かれるまま、素直に食堂へ向かった。
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