アナン・ジェイコフ異聞------登城03
アナン・ジェイコフ異聞
登城03
早朝、麗らかな春の日差しを受けながら、アナンは一人城壁に沿って歩いていた。昨日、ここに到着した折に広大な庭の片隅に植えておいた持参の花を探す。それはユリナが生前よく愛でていた花だ。茎は瑞々しくすらりと伸び、今はまだ蕾だが、花弁は楚々として美しい。長い髪を靡かせその花を抱えたユリナは、互いに相反する印象だったが、何故かとても似合っていた。
「元気そうだ……」
様々に植えられた草花の中から目当ての花を見つける。別れ際に水をやったので大丈夫だろうとは思っていたが、確認するまで多少不安があった。だが、昨日と同じ姿のままそこにあるのを実際に確かめ、アナンはほっと安堵した。
「長旅で疲れたであろう。次こそ安住の地だ」
花に人格を求める、幼い少女が発するような科白だったが、アナンは至極真面目に花に語りかけ、そして、昨日植えたばかりの花の根を再び丁寧に掘り起こした。根の周りの土を器用に払い、傷みがないか見て取ると、茎や葉を折らぬようそっと麻袋に入れる。腰をあげ立ち上がったアナンは、城より少し離れたところにある神殿へと目をやった。神殿近くには、目的の場所がある。苦い感情で引き攣れそうになる胸を押さえ、アナンは重い足取りでユリナの眠る許へと向かった。
城を去って五年、その間一度も慰霊塔に足を踏み入れたことはない。無論五年と言うからには、ユリナが埋葬された時でさえ訪れなかった。田舎の小さな館で看取った後、家の者に頼み神殿へと出棺した。共に行けば、きっと平静ではいられなかっただろう。己のせいでユリナの人生を犠牲にしたうえ、最期になってまで取り縋るなど、無様な姿は見せられなかった。
神殿への道中は酷く懐かしく、景色の一つ一つがユリナとの思い出に繋がり、胸が締めつけられそうになる。まるで、親子か兄弟かと揶揄されるくらい仲の良かった二人。庭に置かれた石造りのテーブルにて、本当に家族になろうか、籍を一緒にするかなどと冗談半分で言った時に見せた、ユリナの表情が忘れられない。時を経て悲しみは和らいでも、切なさは止めどなかった。
背の高い庭園の樹々を抜けると視界が開けてくる。石畳の先に巨大な塔が現れ、アナンは歩みを止めた。そこには庭園にも増して色とりどりの花々が咲き誇り、澄んで厳かな、独特の風が流れる。アナンはゆっくりと足を踏み出した。花の間を縫うように進む。手を伸ばせば届くくらい近く塔に歩み寄ると、アナンは麻袋を石畳に下ろし、中の花を剥き出しにした。石から隙間見える土を素手で掘り、花の根をそこに埋める。そして、慈しむように微笑むと、アナンは塔に額を寄せた。
「久しぶりだな、ユリナ……」
そこは神官達の共同墓地。ユリナだけではなく、多くの神官が眠っている。だが、アナンは構わず瞳を閉じた。不思議なことにまるでそこにアナンとユリナ二人だけが対しているかのような甘さが漂う。不敬とも言える行為だったが、辺りの空気もそれを許容したように二人をやわらかく包んだ。
「お前の好きだった花を持ってきたぞ」
アナンは笑みを浮かべながら、蕾を指先で辿った。花もアナンに呼応し、微笑むかのごとく揺らめく。
「お前も主の傍で嬉しいか」
そして、蕾は急にゆらゆら左右に震え出すと、光の粉を噴きながら、パンと弾けるように花開いた。
アナンは一瞬絶句し、喘ぐように声を絞った。
「ユリナ……っ」
それは、生前よくユリナが仕掛けた悪戯で――。
顔が切なく歪んだ。
「馬鹿だな……。突然咲いてしまってはすっかり趣きが無くなってしまうではないか」
ユリナを諌めるためによく吐いていた言葉を、三年振りに口にする。
『いいんだよ。老い先短い私には、あと幾度この花を眺められるか分からないのだから』
いつも愉しげにこう言っては、ユリナはアナンの言うことなど一向に聞かなかった。
「いつまでも私を困らせるのだな……」
ユリナの魂が起こした奇跡か、それとも他の誰かの悪戯か――。
今この花が開いた真因は分からない。だが、アナンにとって真実はどうでもよく、ユリナだと信じて疑わなかった。
「ここに居過ぎると何かと毒だ」
三年かけてじっくり癒してきたはずの傷口が、再び痛み出すのを感じる。
小さく苦笑を零し、アナンは立ち上がると、元来た道を戻ろうと踵を返した。その時、ふと聞き知れぬ声がアナンを呼び止める。
「どちらさまでしょうか」
咄嗟に振り向けば、子供が一人桶を抱えて佇んでいた。歳は十くらいだろうか。神官服に身を包み、アナンを見上げる瞳は明るく澄みやかだ。
「勝手に失礼した。私の名はアナン・ジェイコフ。――貴殿は?」
「わたしは、ルーラ・ヴィノクと申します。神殿よりここの管理を任されている者です」
「ヴィノクと言えば、公爵家の……」
名家の御令息がわざわざ神官になるとも思えず、アナンは半信半疑に呟いた。
「ええ、ヴィノク家はわたしの実家です。貴方は……、城付きの兵士様ですか?」
「……一介の騎士だ」
王に入軍への返事を待ってもらっている状態である今、はっきり否とは言えずアナンは言い淀んだ。そして、自分のことに触れられるのを避け、急いで二の句を接いだ。
「貴殿は御若いのに、神官のようだが――」
「わたしは、まだ、見習いの身です」
照れて俯いたルーラに、アナンは微笑みかけた。
「見習いとはいえ、神官服を着ることを許されているところを見ると、余程優秀なのかな」
特例を除いて、神官になれるのは齢十五以上の男子に限られる。
褒めて言ったつもりが、何故かルーラの顔色がさっと青褪めた。
「わたしは……、その、<特殊>なので……」
そして、自嘲とも苦笑ともつかない表情を浮かべる。
これ以上言及するなとでもいう、見えない拒絶をアナンは感じた。特殊という曖昧な理由で、相手に理解を求めるのを諦めたかのように。
だが、アナンは、その言葉と風体から、ルーラの心情を僅かなりにも理解した。
「それも才能の内だと、私は思うがね」
「……あなたには」
分からない、とでも続けたかったのだろうルーラの口を、アナンは遮った。
「貴殿は二つの性を持っているのであろう?」
思わぬ言葉に驚き、ルーラは顔を振り上げてアナンを見つめた。
そこにあったのは笑んだままの優しい表情で……。
居心地悪さに、また視線を下ろした。
「ヴィノク家の内情を耳にしたわけではないが、その歳で神殿に入られたことを思えば、貴殿もそうだと考えておかしくない。それに……、私の知己も同じであったから」
ルーラは怯えた表情を浮かべ、床を睨んだまま震える声で言った。
「あ、あの……」
アナンは黙って、ルーラが何か言い出すのを待った。
気まずい空気に気圧され、やっとルーラが小さく囁く。
「……貴方はわたしを、軽蔑なさいますか」
「何故に」
出来る限りアナンは優しい声で問いかけた。
「<両性>であることを――」
一陣の風が吹き荒び、樹々が一様に騒ぎ出す。
ルーラとアナンの髪も宙に舞ったが、二人は動かずお互いの出方を待った。
やがて、アナンは瞳を横に流し、塔を見上げた。
「両性は類まれなる美貌と天分に恵まれた存在。貴殿が御身を蔑むことはないし、私も見下すことをしない」
ルーラは目を瞠ってアナンの横顔を仰ぎ見た。
「本当、に――?」
「嘘を吐いても仕方あるまい」
見る見るルーラの瞳から涙が溢れ、桶を手放すと顔を伏せてわっと泣き出した。それを見て、アナンがいかにも困った顔で、ルーラに歩み寄り片膝を着いた。
「泣かすつもりはなかったのだが……。やはり不愉快だったか」
「いいえ、いいえ……っ」
それまで、神官らしく体裁を保っていたルーラだったが、まるで幼子のように泣きじゃくり、首を何度も横に振った。
両性とは、この世に数人しかいないと言われる稀有な存在。その身に生まれもって与えられた特異な能力(主に魔術)は人々の畏怖の対象となり、ある世では崇められ、また別の世では蔑視され、ルーラに至っては神官達の嫉妬を煽る存在だった。幼いうちから神殿に奉公し、身近に頼る者もなく、年上の神官達に揶揄される日々は、幼い身に過酷であるに違いない。
アナンはやはり困ったようにルーラを見守り、ただ泣き止むのをじっと待った。
「落ち着いたか」
しばらくして、ルーラの泣き声が治まってきたのを見計らい、アナンはその小さな頭に掌を乗せた。そのままやわらかく髪の毛を撫でつける。
「……すみません」
やっと顔から手を外し、ルーラはしゃくり上げながらも小声で謝った。
「いや、私が余計なことを申したばかりに」
「いいえっ、そんなことはありません」
「だが……」
「ただ、ほっとしただけなのです」
「……ほっとした、とは?」
ルーラは悲しげに笑みを零した。
「ここには法王様以外、わたしを認めて下さる方がいないから……」
「神官を務められるのは原則男子のみ、だからか」
「ええ……。中途半端な性を持ち、尚且つ法王様直々に御引立て頂き神殿に入った若輩なれば、気に入らぬ方も多いのでしょう」
「加えて、能力も高いとなれば尚更か」
ルーラの顔に瞬時暗い陰が落ちたが、次には明るく笑んでアナンを見上げた。
「ですが、今日初めて、法王様と家の者以外で普通に接して下さる方が現れた。今はそれで充分です」
「そうか……」
それは、まだ痛みの残る笑みだったが、アナンは気づかぬ振りをして頷いた。
「あ、あの……、初めてお会いして、しかも、年上の方に不躾だとは思うのですが……」
ルーラは顔を僅かばかり赤らめて、上目遣いにアナンを見た。急に顔色が変わったことを不思議に思い、アナンは首を傾げる。
「何か」
泣いたことですっかり堅さのとれたルーラは、年相応の顔つきで、もじもじと指を胸の前で絡めて言った。
「そ、そのう……。わ、わたしのお友達になって頂けませんかっ」
「……友達」
意外な言葉にアナンの目が見開く。それを見取ったルーラは慌てて絡めていた指を外し、ぶんぶんと首と一緒に手を振った。
「いえっ、その、お友達とは失礼ですよね。ではなくて、お兄様のような……。その、たまにこうしてお会いできたら嬉しいなと思って――」
「兄上、ね……」
身の振り方に迷うアナンとしては、安易に頷けるはずがなく、曖昧に微笑んだ。それに、実際は兄上どころか、父上、下手をすれば爺上くらいの年の差だ。
アナンの表情に、何かしら気取ったルーラが途端に目を瞬かせた。
「あ、あの、ごめんなさい。わたしばかり先走ってしまって! 決してご迷惑をおかけするつもりでは――」
必要以上に取り繕おうとするルーラを見やり、何かふんわりと仄温かいものがアナンの胸を占めた。
「いや……。嬉しいよ、ルーラ」
自然とそう発してしまい、アナンは我が言ながら驚き、思わず口元を押さえた。恐る恐るルーラを窺えば、茫然としているのが見て取れる。
「これは、その……」
弁明しようとしたアナンだったが、自分を見つめながら再び涙を流すルーラを前に、口を噤む他なかった。他に何か言葉をかけようにも、これまでアナンの周りには大人ばかりで子供がいなかった為に、ルーラくらいの年頃の扱いがまったく分からない。アナンは困ったように眉を下げ、そうして優に半刻もの間ただじっと、ルーラが泣き止むのをやはり待つしか術がなかった。
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